パッサナーのブログ

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憧れるのは「そらでモノを言う」こと - 叔母との会話の比率8:2から考える

私が憧れることに「そらでモノを言う」があります。
「そら」の意味を調べると複数ありました。
そのうち、「そらでモノを言う」に当てはまる意味は次のとおりです。

助詞「に」(後には「で」)を伴う、「読む」「覚える」などの語を修飾して、文字を見ることなく記憶に頼るだけであることをいう。(精選版日本国語大辞典より)

上の、「助詞「に」(後には「で」)を伴う」の部分は、「そら「で」モノを言う」の「で」にあてはまります。
「読む」「覚える」のところは、「そらでモノを「言う」」の「言う」にあてはまります。
このことから、「そらでモノを言う」の意味は、文字を見ることなく記憶に頼るだけでモノを言う、ということになります。
私は、これができることに憧れます。

今日、妻と娘と、叔母の家に遊びに行きました。
叔母は70代半ばで一人暮らし、恐らく普段、そんなに人と話す機会はありません。
ですから、話をする能力は衰えこそすれ、日々向上することはないと考えられます。
しかし、今日会話を支配していたのは、終始一貫叔母でした。
(叔母には一切悪気はありません、自然な振舞いの結果です。)

叔母を訪問したのは10:30頃で、退去したのは14:00頃です。
その間3時間半ですが、お茶を入れたり食べ物を用意したりする時間を差し引き、会話は2時間半くらいです。
このうち、それぞれの会話の比率は、叔母が8、私と妻と娘が2です。

妻については、血縁関係にある親類ではないので遠慮気味で、聞き役に回っています。
会話の比率が低くなるのは分かります。
娘も、しょっちゅう遊びにくる訳ではないので、こちらも遠慮気味です。
会話の比率は低くなります。
妻も娘も、遠慮気味のスタンスからくる会話の比率の低下に、不思議はありません。

しかし、問題は私です。
私は叔母と血縁関係があり、小さな頃からよく知っています。
ここ10年、20年を考えても、親類の葬儀など、顔を合わせる機会は多いです。
また、親類のなかでは比較的行き来もある方です。
ですから、妻と娘とは異なり、私は遠慮気味のスタンスをとる必要はありません。

これからすると、私は叔母に対して、遠慮なくモノを言うことはできます。
しかし、実際の会話の比率は、叔母と私に限って言えば、叔母が8、私が2でした。
しかも2の大半は、相槌や聞き返し、質問です。
私が自分のことを話すことは、ほぼありませんでした。

叔母の話は、食べ物のこと、飲み物のこと、料理のレシピのこと、通っている病院のこと、スマホのこと、ユーチューブのこと、政治のこと、檀家となっているお寺のこと、ご先祖様のお墓のこと、母親(私の祖母)のこと、夫(私の叔父)のこと、自分の子供の頃のこと、親類のこと、等々、多岐に渡りました。

叔母のそうした話に対し、私は言葉を漏らさないように聞きます。
適当なところで相槌をうち、山場と思われるところでは、あえて聞き返したり質問をしたりしました。
はたから見ると、いい感じで会話が成立しています。
話をする人がいて、相槌を打ちながら聞く人がいる。
何の問題もないでしょう。

しかし、私には葛藤がありました。
会話の最中、会話の比率が叔母が8、私が2であることは理解していました。
しかも、2の大半が相槌や聞き返し、質問であることも分かっています。
私は、話をしていない自分に対し、危機感を覚えました。

このとき私が考えていたのは、叔母のことではなく私自身のことです。
叔母が私に話をしてくれるのは、私に嫌な気持ちがないからでしょう。
それはありがたいことです。
何も包み隠すことなく、こんなにざっくばらんに話をしてくれる親類もなかなかいません。
何かあったら確実に助けてくれる気がします。
ですから、叔母には感謝しています。

問題は私自身です。
叔母が8、私が2、しかも2の大半が相槌や聞き返し、質問という状況に、私は自分が、「そらでモノを言う」ことができないのではないかと感じました。
叔母の話は話題を変えながら次々と展開していきます。
しかも叔母は、原稿を読んで話をしているのではありません。
ずっと、そらでモノを言っています。
これは凄いと思いました。

話題が転換するときに、少し間ができます。
私は、その間をとらえて話をしようとするのですが、話すことが思い浮かびません。
真っ白です。

世の中を見ると、みんなそらでモノを言っています。
私の経験上、そらでモノを言えるか言えないかは、人生に与える影響が大きいです。
だから、「そらでモノを言う」ということに憧れます。

ただ、自分が本当にそらでモノが言えないのか、もう少し検討したいです。
相手の話にコミットし過ぎるのではないか、相槌や聞き返し、質問に意識が行き過ぎているのではないか、もう少し自分本位になってもよいのではないか。
そうした可能性についても、考えてみます。