パッサナーのブログ

日々、考えたこと、行動したことを、書いています

雑談とはこんなにも過酷で困難なものであることについて

私の悩みは雑談ができないことです。
この年になって分かってきたことは、会話は聞く工夫だけではダメ、こちらもそれなりに発話する必要があるということです。

飲み会のとき、誰かと至近距離で働くとき、エレベーターで乗り合わせたとき、会話がない、もしくは続かない。
間が持たなくなるのが怖い。
そんな予見はやがて、現実のものとなります。

私は、話を聞いているうちは受けがよいようで、会話の雰囲気は悪くありません。
聞いている間、オウム返し、言い換えての返し、適度な相づち、関心があるそぶり、興味深げな質問、そうですよねという共感、などを使っているからだと思います。
また、スパイスとして、反感を持たれない程度のわずかな反対意見も表明します。
これも、相手にとっては、話し甲斐を感じさせるのかも知れません。

しかし、雰囲気がよいのは最初だけです。
一定の時間が経過すると、相手はこちらへの興味を失い、つまらなさそうな、白けた空気が漂います。
それは、話を聞いたり質問したりするだけで、一向に私からの発話がないからです。

発話しようにもネタがありません、ネタがないから発話ができません。
相手を目の前にして、頭に何も浮かんできません。
飲み会で、会話術の本をバッグに忍ばせ、会場の片隅で本を開き、いま使える技はないか調べていたことがあります。

会話の例を確認して飲み会の席に戻りますが、効果は一瞬だけで、やがて白けた空気が漂います。
いたたまれなくなってトイレに立ち、しばらく時間かせぎをします。
飲み会が終わるまで、会場の外で待機していたこともあります。
楽しく会話をしているみんなが羨ましい。

思うに、雑談は聞くこと以上に、発話がないと成り立ちません。
そして、発話にはネタが必要です。
しかし、雑談のネタは築地のネタ以上に入手が困難です。
それは、いくらお金を積んでも手に入れることはできません。
自分の頭で収集し、自分の頭にストックし、その場に応じて適当なネタを選び、提示する必要があります。

発話のためのネタの収集、ネタのストック、ネタの提示には、努力が必要です。
雑談とは、決して自然発生するものではありません。
きっと、険しい道のりなのです。
確かに、人の話を聞くことは必要です。
しかし、発話することも同じくらい大切で、それにはネタが必要です。

聞くための様々な工夫をし、それが効果を発揮するうちは雰囲気はよいです。
しかし、聞く一辺倒では限界があります。
やがて、相手の私への興味はなくなり、白けた雰囲気が漂い、沈黙がつづき、それを補うために絞りだした言葉も白々しく、やがてどちらかがトイレに立ちます。

発話はサービス精神です。
発話にはエネルギーがいります。
だから、発話している人はきっと、素晴らしい人なのです。
よい雰囲気を作ろうとして、がんばっています。

発話しないのはサボりかも知れません。
楽をしているのかも知れません。
しかし、発話しようにもネタがないのも事実です。

雑談のために、常にネタを探し、何かあればすくいとり、頭にストックしておきます。
商売と違い、在庫はあればあるほどよいです。
しかし、その場に応じ、適当なネタを引き出すのは難しそうです。

厳しいトレーニングが必要かもしれません。
頭の良し悪しも関係するでしょう。
雑談とは、それほどまでに過酷で困難なものなのです。

しかし、ここまで書いておいてなんなんですが、こんなこともあります。
10年ほど前、町内会で役員をやっていたとき、同じ役員のおばちゃんと電話で話をしました。
このときには延々と会話が続き、苦もなく、楽しかったのです。
これはいったいどういうことなのでしょう、人生、わからないことだらけです。