パッサナーのブログ

日々、考えたこと、行動したことを、書いています

モノに機能を発揮してもらうこと - 一隅を照らす一環として

私は公共のトイレに入ると、一番使われていない便器はどれかと考えます。
一番奥の便器かな、いや、一番奥は意外と使われそうだな。
それじゃ、奥から2番目かな。
などと考え、そのときに判断した、一番使われていなさそうな便器を使います。
これは、使ってあげないと、その便器がかわいそうだからです。

人が生活する場所にトイレは必要です。
そこに設置された便器とは、大小便を受ける器です。
人の大小便を全て受け切るという、他では代替できない機能を果たしています。
便器として製造され、そこに設置されているからには、その機能を十分に発揮してもらいたい。
だから、使われていなさそうな便器があれば、それを使ってあげます。

私の住んでいる集合住宅の棟には、玄関が3つあります。
3つの出入口のうち、道路にでやすい位置にある2つの玄関は利用頻度が高いです。
しかし、道路から遠く、棟の一番奥まったところにある玄関は利用頻度が低いです。
しかしそこにもインターホンがあり、オートロックがあり、掲示板が設置され、エレベーター点検など様々なお知らせが張り出されています。
その玄関も、玄関として十分な機能を持っています。

私は仕事の帰りには、棟の奥まったところにあるこの玄関を使っています。
道路から集合住宅に向かっていくと、他の2つの玄関の方が近いですが、あえて棟を回り込み、この玄関まで来ます。
この玄関に、それが持っている玄関としての機能を、発揮してもらいたいからです。
オートロックを開錠して中に入ると、掲示板も気にします。
それが、玄関が玄関としての機能を発揮することにつながります。
玄関冥利に尽きる、ということです。

また、棟を回り込んで玄関まで続く小道も、私が通ることで、人を玄関まで導くという機能を発揮することができます。
集合住宅を設計するとき、小道には、そのような機能が与えられていたはずです。
しかし、通る人がいなければ、小道はその機能を発揮することもなく、虚しく寂れてゆきます。
それでは小道がかわいそうです。
せめて私が通ることで、その機能を発揮してもらいたい、ということです。

ただ実際は、この玄関も小道も、郵便局の人だけは使います。
郵便受けがこの玄関にしかないからです。
住民の利用頻度は低くても、郵便局の人は必ず使うので、よかったと思っています。

また、この玄関は引き戸で、戸が左右に2枚あります。
右側の戸には、「このドアはゆっくりあけてしめてください はげしくしめるとうごかなくなります。」と書かれた張り紙が張られています。
これを見て、わざわざ動かなくなるかもしれない右側の戸を開け閉めする人はいません。
みんな、左側の戸を開け閉めします。

しかし私は、張り紙が張られた右側の戸を開け閉めしています。
それは、右側の戸に、戸としての機能を発揮して欲しいからです。
みんなが左側の戸だけを開け閉めすると、右側の戸がその機能を発揮することができません。
これでは右側の戸がかわいそうです。
だから、私が開け閉めすることにより、その機能を発揮してもらおうということです。

それに、張り紙に「このドアはゆっくりあけてしめてください」と書かれているということは、張り紙が、右側の戸もゆっくりなら開け閉めしていいですよと、案内していることにもなります。
つまり、私が右側の戸を開け閉めすることによって、この張り紙が案内していることが、実際に生じます。
これは、張り紙がその機能を発揮したということです。
それがなければ、張り紙の案内は無視され、その機能を発揮できません。
それでは張り紙がかわいそうです。

私は、一隅を照らす、という言葉が好きです。
一隅はおおよそ、かたすみと言う意味です。
かたすみは、中心から離れたところ、すみっこのことです。

すみっこで、機能を発揮できていないモノがある。
それは、機能を発揮することにより人の役に立ち、この世界で活躍するように設計されていたはずです。
しかし、機能を発揮する機会を与えられないまま、置き去りにされている。
それではモノがかわいそうです。
だから、機能を発揮させられるものなら、発揮してもらいたいということです。
これもまた、一隅を照らす、という言葉に通じているように思えます。