(2024.3.9、北海道大学総合博物館、1階展示室)
複数人で博物館を訪問するとき、互いの見学ペースには早い遅いの差があります。
多少の差であれば、あらかじめ集合場所を決めておき、先に見終わった人はそこで待っているようにします。
博物館にカフェがあれば、コーヒーでも飲んでゆったりと待っていられます。
しかし、見学ペースに著しい差がある場合そうはいきません。
いつまで経っても姿を見せないメンバーを、首を長くして待つことになります。
一昨日の午後、家族で北海道大学総合博物館を訪問しました。
私の見学ペースは遅く、妻と娘は早いです。
このことが分かっているので、1階のカフェを集合場所とし、めいめいに見学を開始します。
北海道大学総合博物館は展示スペースが1階から3階まであり、それぞれの展示内容も密度が高いです。
妻と子が1階から3階まで見終わったとき、私はようやく1階を見終わったところでした。
2階、3階の見学を終えて集合場所のカフェに降りていきましたが、待たせすぎたと思います。
うちの場合は私の見学ペースが遅いことを、妻と娘に理解してもらっています。
しかし、知人と博物館を訪問する場合そうは行きません。
あまりに見学ペースに差があると、見学ペースが早い相手を待たせ、ストレスを与えてしまいます。
これでは、知人と博物館に行く意味がありません。
前回の記事で、見学ペースの差は、展示の解説を読むか読まないかの違いにある、という話をしました。
以前からそのように推測していましたが、一昨日の見学の際、ある企画展示で配付されたアンケートが、推測が正しかったことを明らかにします。
アンケートには、解説を全て読みましたか、という質問がありました。
解説は、私はすべて読んでいましたが、妻と娘はほとんど読んでいませんでした。
(ここでは、読む読まない対する価値判断はしません。)
見学ペースの差が解説を読むか読まないかの違いにあるとすれば、見学ペースを合わせるため、見学ペースが遅い人は解説を読まないという選択があります。
そうすることによって見学ペースの差を縮め、円満に博物館訪問を終えることができます。
人と一緒になにかをするということは、相手に合わせることです。
だから、この選択はありです。
見学ペースを合わせるため、展示の解説を読まない選択があると言いました。
この場合、展示の解説を読まないことによって、展示を見学する体験で、何か失われるものがあるのでしょうか。
これを明らかにするため、なぜ展示の解説を読むのかを考えてみました。
博物館での展示では、展示資料とその解説がセットになっています。
これは、モノと情報がセットになっているということです。
解説には、モノの性質や構造、由来や歴史などに関する情報が含まれています。
もし、モノだけがあって情報がない展示があったらどうでしょう。
きっと、展示を見てもあまり面白くないのではないでしょうか。
もちろん、モノ自体の外見的魅力によって惹きつけられる、ということはあります。
精巧な美術工芸品や鮮やかな色彩に満ちた絵画など、解説がなくとも見る人の目を楽しませてくれます。
しかし、モノすべてが外見的魅力を備えている訳ではありません。
また、モノの価値は外見的魅力ばかりにあるのでもありません。
むしろ、モノの価値は外見的魅力以外に多くあります。
それらの価値の一部が、モノの性質や構造、由来や歴史です。
そうした価値を伝えるのが情報です。
つまり、展示資料とセットになっている解説です。
例えば、目の前にある展示資料がただの丸木船であっても、13世紀にアイヌがそれを利用して海や川を行き来していたこと、舟の「へり」にはアイヌ文様、櫂(かい)や棹(さお)には所有者を示す印が刻まれていることを、解説を読むことによって知ります。
こうした情報を受け取ることにより、展示されている丸木舟はただの丸木舟ではなくなります。
(上の例は、苫小牧市美術博物館のアイヌの丸木舟の展示です。)
こう考えると、展示の解説を読まないということは、展示資料を見学しながら、ついにその価値を知らない、といことになるのではないでしょうか。
外見的魅力により目を引いた展示資料も、その性質や構造、由来や歴史など、その価値について知ることはついにない、ということになります。
私が博物館の展示見学で解説を読む理由は、展示資料の価値を知りたいからです。
展示されたモノは情報とセットになり、情報はモノの価値を伝えます。
価値のあるモノを価値のあるモノとして認識したいから、解説を読みます。
なお、こうは書きましたが、解説を読む展示見学はよろしくて、解説を読まない展示見学はよろしくない、ということではありません。
この辺りのことは、また改めて書きます。