(2024.1.21、本郷新記念札幌彫刻美術館)
1月21日に訪問した、
本郷新記念札幌彫刻美術館。
こじんまりとしていますが、
展示の内容が充実していると感じました。
それは、
展示されている彫刻の数が多い、
ということではありません。
展示を通して、
訪問者に伝えようとするものに、
内容量があるということです。
1月19日から5月26日まで、
コレクション展 かく語りき本郷新「彫刻は詩の塊だ!」、
が開催されています。
ポスターに書かれていた次の文章が、
コレクション展の狙いだと思います。
「本郷新は
青少年にむけた理論書
『彫刻の美』を著すなど、
わかりやすく芸術を語ることに
長けていました。
本郷の「言葉」を
鑑賞のお供にして、
作品を味わってみませんか。」
これが、
コレクション展のタイトル、
かく語りき本郷新、
に反映されていると思います。
公園に行くと彫刻があり、
それが人物であれば、
ポーズや体の動き、
顏の表情などを見て、
私は何らかの感興を覚えます。
感興は、
視覚を通して得た、
刺激によるものです。
これは、
彫刻の正統な鑑賞の仕方で、
それで良いのです。
しかし、
鑑賞にはまた、
別の局面があることを、
このコレクション展は教えてくれます。
作品に込められた、
制作者の意図を、
制作者自身の言葉で理解する、
ということです。
制作者がなにを思い、
どのような考えで、
このポーズや体の動き、
顏の表情にしたのか。
彫刻の完成形を全くイメージせず、
ただ何となく手を動かしていたら、
こんなのが出来上がりました、
ということはないでしょう。
(いえ、
もしかすると、
あえてそのように制作する方法も、
あるのかも知れません。
その場合は、
無意識が人間の本質で、
脱思考の状態で制作した作品こそが、
人間の真実を体現している、
ということになりそうです。)
彫刻を制作している間は、
その振れ幅はあるにしても、
ある程度、
完成形をイメージしているでしょう。
その完成形には、
制作者の思いや考えが、
反映されているはずです。
鑑賞の新しい局面とは、
この、
制作者の思いや考えを、
汲み取ろうということです。
制作者が全て、
饒舌な訳ではありません、
寡黙な制作者もいるでしょう。
決して、
寡黙が悪い訳ではありません。
ただ、
そうである場合、
事実として、
制作者の意図を汲み取るのが難しいです。
しかし、
コレクション展のポスターにあるように、
本郷新は、
わかりやすく芸術を語ることに長けていました。
これは、
彫刻を鑑賞する者にとって、
幸運なことではないでしょうか。
本郷新は、
著書『彫刻の美』をはじめ、
数多くの芸術論、作品論、自伝などを、
記しています。
これらに遺された、
本郷新の言葉によって、
鑑賞者は、
彫刻に体現されている、
彼自身の思いや考えを、
知ることができます。
これが、
視覚のみによる鑑賞とは、
また異なる鑑賞の仕方です。
鑑賞の、
新しい局面です。
コレクション展 かく語りき本郷新「彫刻は詩の塊だ!」、
では、
彫刻とともに、
その近傍に、
本郷新の言葉が掲げられていました。
少し長いですが、
あぁ、言われたらそのとおりだな、
と思った言葉を引用して、
記事を終えます。
「作品には、
かならず作者の意図がある。
作者が感動したものを、
または意図したものを、
彫刻では量感、リズム感、動勢、比例、つりあいなどの要素を
おのずからおりこんで構成している。
それは抽象的な彫刻であっても、
具象的な彫刻であってもかわりはない。
たとえば、
裸体彫刻のばあい、
作者が女性の個性的な特質だけをつかみとろうとしているのか、
かがやく海のようにおおらかな肉体の美に感動したのか、
おうとつのはげしい陰影のおもしろさを追求したのか、
裸体をかりて空間構成や律動感を表現しているのかなど、
作品を通じて作者の意図を考えると、
いっそう興味ぶかい鑑賞ができる。
本郷新「彫刻」書名不詳、学習研究社、一九六七年」