パッサナーのブログ

日々、考えたこと、行動したことを、書いています

休日の午後からでかける博物館 - エドウィン・ダン記念館 2

(2024.2.14、エドウィン・ダン記念)
 
1月14日に訪問した、
エドウィン・ダン記念館の続きです。
 
二度目の訪問なので、
展示見学はほどほどに、
資料を重点的に見ることにしました。
 
とは言っても、
記念館に到着したのは15:00過ぎ、
閉館は16:30です。
 
1時間半しかありません、
全部は見れないと思いましたが、
そこは割り切ります。
 
 
記念館には、
展示スペースとは別に、
図書・資料が置かれている部屋があります。
 
部屋の中央には、
ソファとテーブルが置いてあり、
テーブルの上に、
資料が置かれています。
 
資料はクリアファイルで、
6冊ありました。
 
エドウィン・ダンに関する資料、
記念館に関する資料、
取材資料、
その他、
写真などです。
 
ファイルには、
新聞や雑誌の切り抜きや、
記念館を管理する団体が発行した、
リーフレットなどが、
収められていました。
 
 
私が最初に見た資料は、
北大農学部教授によって書かれた、
昭和30年代の切り抜きです。
 
(何の切り抜きだったか、
 ちょっと思い出せません。)
 
その記事を読み、
エドウィン・ダンの下で、
畜産・酪農を学んだ人々のなかに、
仙台藩主家の伊達氏と、
重臣である片倉氏の家臣が、
複数いたことを知りました。
 
戊辰戦争で、
江戸幕府明治新政府に敗れ、
幕府側だった仙台藩は、
大きな減封を受けました。
 
また、
このとき片倉氏も、
知行を没収されました。
 
伊達氏・片倉氏の家臣は、
路頭に迷うこととなり、
北海道に入植する道を選びます。
 
入植先には、
伊達氏の家臣は伊達市当別町など、
片倉氏の家臣は登別市幌別・鷲別、札幌市白石区手稲区
などがあります。
 
そして、
こうした各地の入植先から、
エドウィン・ダンの下に、
畜産・酪農を学びに来ていたのです。
 

私は1999年から2003年までと、
2010年から2016年までの都合10年、
仙台に住んでいました。
 
そのようなこともあり、
私は仙台、ひいては宮城県を、
第二の故郷のように感じており、
伊達氏や片倉氏と聞くと、
親近感を覚えます。
 
まさか、
エドウィン・ダン記念館にきて、
伊達氏や片倉氏の名前を目にするとは、
思ってもみませんでした。
 
ちょっと、
興奮しました。
 
記念館に置かれた資料を読んだことで、
このような出会いが生まれました。
 
こんなことがあったので、
エドウィン・ダン記念館に来たことが、
大変面白く感じられました。
 
 
さて今回、
記事を書くにあたり、
少し考えたことがあります。
 
それは、
こうしたことを書くときには、
具体的な情報があった方がよい、
ということです。
 
例えば上で書いた、
エドウィン・ダンの下で、
酪農・畜産を学んだ人々のなかには、
伊達氏・片倉氏の家臣がいた、
という切り抜きについて。
 
これは、
昭和30年代に、
北大農学部の教授が書いた記事です。
 
しかし、
書かれた年や教授の名前、
何という雑誌または新聞の切り抜きか、
などを憶えていないので、
記事でそれらが書けません。
 
また、
エドウィン・ダンの下に集った人々が、
どこの入植地からやってきて、
それが、
伊達氏の家臣なのか、
片倉氏の家臣なのか。
 
憶えていないので、
これも書けません。
 
資料を読んだときに、
メモも取っておらず、
写真も撮っていないので、
こうなることは予想がついていました。
 
しかし、
いざ記事にしてみると、
具体的な情報が乏しく、
なんだかイマイチな感じがします。
 
 
それでは今後、
展示を見学するときや資料を読むときには、
逐一メモを取り、
写真を撮らなければならないのか。
 
正直、
これでは博物館見学は疲れます。
 
自分が楽しむために行っているのに、
メモや撮影で全然楽しめない。
 
これはちょっと、
違うんじゃないかな、
と思います。
 
だからここは、
具体的な情報は書けないと、
割り切るのも手ではないかなと。
 
ただ、
どう考えればよいのかは、
難しいですね。
 
それでは、
続きはまた。