父と母が入る納骨堂は苫小牧のお寺にあります。
札幌に住む私は春・秋のお彼岸とお盆のほか、苫小牧に行ったときにはお寺に立ち寄ってお参りをします。
昨日、春のお彼岸の最終日にお参りに行ったこと、また、納骨堂でいつでも父と母に会えることについて、お寺に感謝していることを書きました。
しかし、この先の納骨堂の管理をどうしていくのか、自分の年齢的にも、先々の事を考えておく必要があります。
いまの納骨堂は2016年に購入し、8年が経過しています。
費用の負担は、維持費・報恩講(ほうおんこう)経費として年間1万がかかります。
建築物である納骨堂や備品である仏壇などは、経年劣化で傷んでゆきます。
維持費は、経年劣化を遅らせるための保守や、傷んでしまった建物部材・備品の修理・交換など、当然かかってくるものです。
報恩講というのは、その宗派を開いた人(祖師(そし))の恩に報いるため、その亡くなった日(忌日(きにち))に毎年行う法要です。
浄土真宗では、祖師である親鸞(しんらん)の忌日を最終日とする7日間に営まれます。
このお寺の、浄土真宗のなかの宗派である真宗大谷派(東本願寺)では、陰暦11月21日~28日に営まれます。
本願寺派(西本願寺)では陽暦1月9~16日に営まれます。
報恩講の経費がかかってくることもよく理解できます。
お香の匂いの漂う静かな空間で、いつでも父と母に会うことができる納骨堂はよい施設です。
このよさが継続できるのであれば、年間1万の負担はしてもよいです。
しかし、これは私が生きている間のことです。
私が死んでしまった場合、その後は誰が費用を負担するのでしょうか。
私の子は事情があり、この費用を負担することができません。
費用を負担できなくなった後、納骨堂に入っている父と母の御骨はどうなってしまうのでしょうか。
そこで昨日、お寺の方とお話をしてみました。
まず考えられるのが永代供養です。
永代供養とは、故人の供養のための法要を永久に寺院が営んでくれることです。
お寺に永代供養をお願いすれば、私にもしものことがあっても、お寺は父と母の法要を営んでくれます。
永代供養は最初だけ費用を負担し、それ以降の費用の負担はありません。
定価がある訳ではなくその金額はさまざまですが、1人20万程度というケースが多いようです。
父と母の場合は40万となります。
納骨堂の費用を子に負担させないため、永代供養は一考に値します。
問題は、永代供養の後の御骨の取扱いです。
私のイメージでは、永代供養をすると御骨は合葬される、つまり、他の方の遺骨と一緒に葬られます。
この点が、永代供養のマイナス要素かなと思っていました。
このお寺ではどうなるのか聞いてみたところ、合葬施設がないため、今のところは納骨堂にそのまま安置されるとのことでした。
現在毎年発生している維持費・報恩講経費の負担については、ご遺族の任意とのことです。
この場合は、私が健在の間は費用を負担し、私亡きあとは事情を話した上で費用の負担を容赦してもらう、ということが考えられます。
しかしそれでも、仮に合葬施設が設けられた場合は、父と母の遺骨は納骨堂から出され、他の方の遺骨と合葬されることになります。
父と母に会えなくなるようで、寂しい感じがします。
私が死んでしまえば、寂しいと感じる「私」もいなくなりますから、私も含めて合葬されても問題はありません。
しかし、私が生きている間はやはり、そこに行けば父と母がいるという場所が欲しいです。
これは理屈ではなく感情です。
どうしたものでしょうか。
永代供養のほかには、樹木葬はどうだろうと考えました。
樹木葬は、遺骨を直接地中に埋葬し、目印に木を植える方式で自然葬の一つです。
(自然葬は、墓などを建てず、火葬後に砕いて粉状にした遺骨を山や海にまいて自然に還ることを願う葬法です。)
ネットで調べると、札幌市域で樹木葬を行っている霊園は複数あります。
自然に還るというのはよいと思いました。
ただこれも、個別埋葬では初期費用のほかに年間の管理料がかかります。
年間の費用がかからないようにするには、やはり合葬となります。
この点は、お寺の永代供養と同じです。
お寺の永代供養にしても樹木葬にしても、問題は、父と母と個別に会えなくなるという点にあります。
寂しいです。
最近は墓じまいをされる方が多いですが、みなさん、この寂しさを乗り越えておられるのかもしれませんね。